「特定分野に特異な才能のある児童生徒」これが日本で決められた呼び名です。
この呼び名を決定した、文部科学省の長〜々〜としたタイトルの会議資料に目を通すと、日本的解釈による定義が書いてあります。
ご一読ください、、、とは言いません汗。かなり根気がいると思いますので、後々私的解釈で噛み砕きすぎます。会議資料などは文科省HPにあります。
特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議
才能に関する定義については、これまで先行的に取組が進められている諸外国の例をみると、一定のものがあるのではなく様々なものとなっているが、概ねの傾向として、IQ(知能指数)などによる一律の基準を設けるのではなく、大綱的な定義を置いていることが多い。また、その際は、才能を科学技術、芸 術、スポーツなどの多様な領域における領域固有なものとして捉えている例がみられる。
また、どのように才能を見いだしていくのかについては、伝統的に知能検査 や認知能力検査、学力テスト等が活用されているが、現在はそれだけでなく、児童生徒の制作物や発表、教師や児童生徒本人の質問紙やチェックリストな どを包括的に活用する例もみられる。
関連して、才能の全般的な特徴を「普通より優れた能力」、「創造性」、「課題 への傾倒」の3つの要素に大きくまとめ、才能とはこれら3つの要素の相互作用であると捉える考え方がある。この考え方に立つと、3つの要素の表出の仕方は児童生徒によって異なるが、いずれかが高いことが才能を見いだす手掛かりになるとされる。
特異な才能のある児童生徒の認知や発達の特性として、強い好奇心や感受性、豊かな想像力、高い身体的活動性、過敏な五感などや機能間の発達水準に偏りがあることなどが挙げられる。また、しばしば、これらの特性が過度に表出し、環境に馴染めないことによる困難を抱えていることがあることも指摘されている。
また、令和3年答申にあるように「2E(twice-exceptional)の児童生徒」 と言われる、特異な才能と学習困難を併せ有する児童生徒の存在も指摘され ている。こうした児童生徒は、通常の学級に在籍していることや、障害の程度 によっては、通常の学級に在籍しながら通級による指導を受けていたり、特別支援学級に在籍していたりすることも考えられる。
文部科学省HP:特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する 学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議審議のまとめ~多様性を認め合う個別最適な学びと協働的な学びの 一体的な充実の一環として~
理可的解釈(かなり噛み砕くので注意してください←何に)
定義(複雑すぎん?)
簡単に言うと、何かにおいてすごい人。
これを確かな定義にするのってすごく難しそうじゃないですか?
今までの教育において、支援が入っている領域には、医師の診断が入っています。
ギフテッド児は、病気ではありません。そのため、客観的な線引きが異常に難しい。線なんてどうやって引くんだよ!なんで引かなきゃいけないんだよ!!って。学校で特別扱いするからには、税金がかかるから、適当じゃ通らん。我も!!我も!!!が出てしまったら、システムが破綻します。そもそも、予算が通らん。
今回、予算通してくださった事に感動すら覚えます。
特異な才能って何?普通って何?
ギフテッド教育先進国、アメリカ(♪国家BGM)。アメリカではIQ135以上の子供をギフテッド児としてきました(今はIQだけではない)。
IQテストの結果は、標準偏差を使い、100を標準に設定されているので、90-109が平均的といえます(標準偏差は数学ⅢCやらないとわからないかも?私は概念だけしかわからん)。135は平均から外れた高値です。ちなみに、IQを決定するための検査(ウィスク検査)の最大値は一応160だそうです。最小値は40。
平均=普通とするのであれば、IQ135は特異です。並外れてなきゃ普通。
「ギフテッド。特別扱い。何でする?」(五七五)
ざっくり分けて理由が二つあります。
①育てたら国のためになる。地球を救ってくれ(切実)!!
②当事者たちが困っている。集団で学びたい気持ちもあるのに、うまくいかないんだーーー(涙)!!
国としては、16年の長期にわたる投資になりますが、価値ある投資だと結果が出ています。数年間ごとの政権交代やらで、結果が上手いこと集計できなかったり、色々あるそうですが(長くなるので割愛)。どう考えても、国民をすごい人に育てて国に損はないです(人材の国外流出は置いておこう)。更に困っている当事者を救うことで、win-winの関係にもなるわけです。国に恩返ししてくれるかな?どうかな?ははははは。
また、ギフテッド児は、学校に行く必要性はない。と言われる事もあるけど、不登校って子供的に簡単にのみ込めないんです。みんなは行ってるのに、自分は行けないっていう圧がすごい。「行かない」ではなく、「行けない」になってしまう。
そもそも論。学校って子供みんなが行って良いはずなのです。行く行かないの議論になってる時点で、何かが噛み合っていない。同じ年数生きている人たちの中だからこそ、学べる事もあるんです。だからこそ、困ってる人それぞれに解決の術があるなら解決していこう!現代の人間には、そこまで配慮できる余裕があるんです。←これ大事。
何で困る?
強い好奇心や感受性、豊かな想像力、高い身体的活動性、過敏な五感などや機能間の発達水準に偏りがあることなどが挙げられる。by文科省
ちょっとかいつまんで1例をあげてみます。
強い好奇心の成せる技:なんでなんで!?と日々質問と回答の繰り返しです。わからないと混乱し、「わからない」が理由で泣くこともしばしば。しかも、簡単に教えるとわからないが加速します。深く深く掘らないと答えた事にはなりません。この反応が学校の授業に向かうと、何でこんな簡単な事をずっとやらなければならないんだ?という疑問が生まれ混乱を来すのです。もちろん、ただ単につまらないという感覚にも結びつきます。中高生が毎日最低45分×2回(算国)、低学年の中に入れられて、黙って同じことをしなさいという状態がわかりやすいです。無理だろっ。
好奇心が満たされ、答えが得られないと苦しい。泣きたいほどに。だから困るのです(一例に過ぎない)。
才能あるなら良いじゃんって言われがち
これは母目線最大の困り事。何も言えね〜会話終了のお知らせチーン。
何も言わなくなるしかないんですよね。貝のように口を噤もう。時々、油断して貝のように舌がだらんと出てても、触れられれば急いで仕まおう(活き良すぎか)。そんな気持ちで生きています。同意が得られない会話ほどツマラナイものは無い(むしろ苦行)。一般的育児メソッドも当てはまりません。
認知度も低く(だからこそ私はこうして書いている)、貝を開けば自慢話と捉えられるため(口だろ)、孤立している親子が多いそうです(私は家族が最大の理解者なので孤立した感ないだけ)。孤立ってしんどいと思うんです。
まとめ
ギフテッド児とは、アメリカ発の呼び名で、日本では「特定分野に特異な才能のある児童生徒」と呼ぶ事になった(長っ)。
すごい人なんだけど、それぞれに合った環境で育たないと、困り事がいっぱいになってしまう。
逆に言うと、環境さえ整えば、すごい人として活躍できる!やっほい。←ここに到達するのがたぶん至難の業(母として日々責任感じる)。